沿 革

無量山 延壽寺は,西山浄土宗(御本山は、京都長岡京市 粟生の光明寺)に属し、今を去こと八百年以上前の、文治二年(1186年)後白河法皇が聖壽六十歳を迎えられた還暦の賀を記念し、又、延命長寿を祈念して皇居六条殿の近傍に殿堂を造営し阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊を安置し延壽寺と命名された仁王経御修法の勅願の道場であります。この三尊は、金銅製で、その鋳型は、運慶の作と伝えられていることからこの寺を金佛殿と俗称しその地は、金佛町と呼ばれるようになりました。その後、応仁の乱(1467年)により堂舎仏殿は、全て兵火にあい焼失、次いで再建されましたが大永八年(1528年)三好長基の党徒柳本等が火を放ち当山も全焼しましたが、三尊は、金銅像であった為無事でした。その後、寛空和尚が中興し諸堂を再建され、それまで天台宗でしたがこのときより西山浄土宗(浄土宗西山派)に属すことになりました天正十九年(1591年)豊臣氏の命により現在地(河原町六条)に移りました。なお、豊臣秀吉より仏供料として山城の国葛野郡西院村に寺領十八石四斗九升を頂いたので正月、五月、九月には、勅会の法要を厳修していました。天明八年(1788年)正月大火至り寺門鳥有に帰しましたが、寛政四年(1792年)再建されました。元治元年(1864年)長州藩兵殺致して京都に火を放った為、堂宇は全て焼失しました。このとき三尊も遂に溶解してしまいました。その後、明治四年に勅会が廃止され、再建は思うに任せなく、寺門は、疲弊を極めていました。大正十二年(1923年)典空是博上人により諸堂が新たに再建され現在に至っています。